【読解】落合陽一『魔法の世紀』 前編

6章 デジタルネイチャー

 

21世紀の芸術論 

 今回は、落合陽一さんの『魔法の世紀』という本を紹介します。読み込んだのは、第6章の「デジタルネイチャー」という章です。

 

 前から本は持っていたのですが、最近テレビで取り上げられることも多い人なので、この機に著作の読解を通して紹介してみようと思いました。あらかじめ断っておくと、この読解には意図的に自分の主観やよその資料を混ぜ込んでますので、本書の内容からちょくちょく脇道にそれます。正確な理解をしたい方は、本を直接買って読んでください。

 

 この本は、テクノロジーが発達した結果、人間が、目の前の現象の仕組みが理解できなくなった時代 、すなわち魔法の世紀 に生まれる、新しいアートの像について書かれた本だと感じています。

 

 テクノロジー関連の本というと、最近だとAIの本が圧倒的人気ですが、あの棚の本は「人工知能が人間の知能を超えるか」みたいに人工知能そのものの読み物になるか、「ヒトの労働を奪うか」みたいにビジネス目線で書かれるかの2択になってますね。この本もジャンルで分けるとテクノロジーに振り分けられますが、AI時代を語る中で数少ないアートに関する論究をしているので、個人的には芸術論に関する本と位置づけて読むのがよいと思っています。デジタル技術とアートの関係について考えさせられる、そこらのAI本よりずっとオススメしたい本です。


どんな内容?

 「デジタルネイチャー」の章で一貫して述べられているのは、表現における「映像が伝える情報 = 2次元情報」と「物質そのものが持つ情報 = 多次元情報」の対立です。結論を超簡潔にいうと「21世紀は映像メディアに代わり、多次元情報がアートとなる時代だ」となります。

 

 「光=視覚」と「音=聴覚」で構成される2次元の「映像」メディアが20世紀のアートを構成していたのに対し、21世紀は、人間の五感を超えた高解像度の自然情報をコンピュータが計算するようになる。そこでは、触覚とか、質量、座標といった「物質」の多次元情報が、映像メディアが作り出す「イメージ」を介さず直接伝わるようになるのだ、という内容です。


 おそらくポイントは以下の4つになるでしょう。

 

1.20世紀のメディアは、「光=視覚」「音=聴覚」からなる2次元メディア
2.高解像度のメディアでは、自然界の「多次元情報」を利用できる
3.デジタル制御により現実世界の精緻な計算が可能になったとき、デジタルとアナログの区別は意識されなくなる
4.このデジタルネイチャーからコンピュータと人間の境界を探るのが、魔法の世紀のアートである

 

 以下、解き進めていきます。

 

「人間中心主義のメディア意識」を脱する 

 

1.20世紀のメディアは、「光=視覚」「音=聴覚」からなる2次元メディア

 「レコードにはCD音源にはない暖かみがある。アナログにはデジタルにはない良さがあるのではないか」という問いに対し、この書では、すでにこの対比が前世紀的な課題であると切り捨てています。理由は、この対比自体、単に「解像度」の問題に過ぎないからです。

 

 つまり、CDは耳にとって必要な音を意図的にサンプリングしてないから、音として不十分になってしまっているのです。解像度の問題は、サンプリング周波数をあげて、人間の耳に影響を与える粒度の音を全て拾ってやれば解決してしまいます。

 

 この問い自身が示すように、人間が認識可能なレベルでのみ自然界を切り取ろうとするメディア意識を、著者は「人間中心主義のメディア意識」として批判しています。

 

 「人間中心主義のメディア」という表現がなかなかいいですね。機械生産が発展して自然を自在に制御できる、と考えた前世紀の人類の発想を、映像と音声の解像度の考え方にもあてはめています。

 

 ところで、人間中心主義というと、一般的には環境破壊とか、動物の権利で話題になる単語かなと思います。自然は人間の道具にすぎず、道具としての範囲でのみ保護に値するのだという考えです。これに対して、人間に対してと同じように、動物や自然にも権利を与えるべきだという意見がありますね。法律の世界だと、アマミノクロウサギ訴訟なんかを思い起こします。非人間中心主義には、保護の対象が生態系であるとする全体主義と、個々の生命であるとする個体主義とがありました。

 

 もっとも、この先で「人間中心主義のメディア意識」と対比されているのは、上記の意味の全体主義や個体主義ではありません。ここでいっているのは、あくまでメディア意識の持ち方が人間中心主義なのだということであって、人間以外の生命になんらかの権利を与えるべきかというような話は全くしてません。

 

 ここで、著者が個体主義に立っていないのは明らかなのですが、では全体主義のメディア意識といえるようなものが存在するといっているのかどうかは、注意して読み進める必要があります。

 

2.高解像度のメディアでは、自然界の多次元情報を利用できる

 人間中心主義のメディアが自然を低解像度で切り取るところ、他方で、高解像度のカメラを用いれば、「映像」に写っている建物や窓ガラスの微妙な振動から、そこに流れている「音」が再現できるといいます。人間の目にはなんの意味もないものであっても、自然界では「音」の情報を与えてくれるのですね。この辺がわかると、きっと波動物理学が楽しくなるのでしょう。

 

 人間の身体的な解像度を超えた情報を利用するとどういう面白いことが起こるのかというと、例えばこういうことになります。 「音を着れる」という着想が衝撃的でした。

www.fashionsnap.com

 

 こっちは「触れるプラズマ」ですね。

wired.jp

 

 ここでいう「光」「音」というのは、人間中心主義の映像メディアの象徴でしたが、これが「物質世界そのもの」に置き換わります。「観る」「聴く」だけでなく、「着れる」「触れる」といった体験ができるようになるんだよ、というわけですね。ちなみに、人間も物質世界のものですから、この中に含まれてしまうことになります。それがどういうことを意味するのかもこの本では書かれていて面白いのですが、ここでは説明を省きます。

 

 ここまでの論点を本文でまとめた一文があるので、そのまま引用します。

映像の世紀」とは、人間に指針を合わせてメディアを設計する時代でした。しかし、「魔法の世紀」では人間の感覚を超越した設計を行うことで、メディアが物質世界自体をプログラミングできるようになります。そして僕は、コンピュータが制御するモノとモノ、あるいは場と場の新しい相互関係によって作られ、人間とコンピュータの区別なくそれらが一体として存在すると考える新しい自然観そしてその性質を「デジタルネイチャー」と呼んでいます。

 人間中心主義のメディア意識に対して、「デジタルネイチャー」という独特の世界観が提唱されています。先ほどの非人間中心主義のうち、全体主義と語感は似ている気がします。コンピューターによって制御される範囲が、人間の感覚器の尺度ではなく、自然界全体を対象としている、という意味の非人間中心主義です。デジタルネイチャーについて、メルマガの連載では「現代版『人間機械論』」と説明していましたが、最適な表現だと思います。インターネットを介したデジタル制御の考えが加わる点で、もとの理論とは異なります。この辺りの論及は次回作のメインテーマとなると思われるので期待ですね。

 

(後半へ続く)